ユダヤ新年2014

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イスラエルは、ユダヤ歴の新年を迎えました。

一か月以上続いた夏の紛争は、夏の終わりとともに、跡形もなく消え去り、ジョークのネタくらいにしかならなくなりました。いつものことならが、この国の人々の割り切り方には感動すら覚えます。

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さて、今年のユダヤ新年は、週末と連結してGW並の大型連休となりました。私はもちろん、北の果て、第二の故郷、キブツ・ハニタのレゲヴ家にて、身も心もおなか一杯になるまで満喫です。天候も涼しく穏やかな、秋の気配を感じる北の果てで、美味しいものを食べ、ワインを飲み、家族に囲まれ、子供たちに絡まれ?久々に平和な時間を過ごしてきました。というのも、この夏は、転職で私的には大きな変化があり、気が休まる暇が全くなかったのです。(紛争は一切関係なしです)

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あまり頻繁には顔を出さないので、レゲヴの小さな甥っ子たちが、私が到着したとたんに「keiko、僕と一緒にこっち来て」と、小さな手で私の指をつかまれると、照れくさいやら、驚くやらで、子慣れしていない叔母さんは、どう扱っていいものかわからずに、動揺してしまうのです。まぁ、言葉がよく話せない小さな子には、keikoブームはよくあるので、ブームが過ぎれば見向きもされないのはわかっているのですが、やはり、こういう扱いを受けると、胸キュンですよ。

帰りも、私を返したくないと、サンダルを脱がせようとしたり、いかないで~と泣かれたりすれば、悪い気はしませんね。本当に、たまにしか顔を見せない私なのに、子供たちへ私を認識させてくれているレゲヴの家族には、心から感謝です。

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第二の故郷であるキブツ・ハニタで、愛情をたっぷりをもらい、前職場での傷んだ心を癒してもらい、病んだ精神も回復です。さぁ、ラジオ体操の歌を歌いながらジョギングして、心身共に健全な、良いユダヤの新年とするかな・・・と思う、ユダヤ新年の今日この頃。

「新しい朝が来た  希望の朝だ 喜びに胸を開け  大空あおげ」

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理想と現実

毎週金曜日、シャバット(安息日)の夕方には、レゲヴの親族が91歳のおじいちゃん宅で団欒する風景が見られる。孫家族・ひ孫まで集まると、多い時には30人近い人が一つの部屋に座り、しゃべり、お茶を飲み、そのときどきの話題に会話が弾み、騒音にも近いにぎやかさになる。日本では、団欒の席での政治話しはご法度の気配があるが、イスラエルでは政治・戦争抜きの会話を聞いたことがないほど、人が集まれば議論が始まりだす。

先日は、オバマ大統領のハエ殺しの話題から発展して、ガザの話しになった。レゲヴの叔父さんが「ガザへの侵攻は、完全なるイスラエルの失策だ。民間人を500人以上殺して、いったい何が変わったのか?事態は一向に好転していないし、状況に何ら変わりはないではないか!」と言えば、レゲヴの叔母さんは「あれは必然だった。今こうして南部にロケットが飛んでこないじゃない。話し合いというけれど、ガザには話し合いをすべき相手はいないわ。ハマスは人間ではないもの」と声を荒げ、レゲヴの24歳の弟は「世界の歴史を見てみろよ、勝者の国がどういう戦争をしてきたか。皆殺しにしなければ、勝てないんだよ」と、語った。

レゲヴの家族たちは全員が左派であり、イツハク・ラビンの時代にはおばあちゃんと叔父さんを筆頭に、ラビン支援の要となって和平への運動をした人々だと聞いている。今でも、ラビンが暗殺された1995年11月4日のステッカーがおじいちゃんの家には貼ってある。そんな家族の中から、「ハマスは人間じゃない」「皆殺ししなければならない」などという言葉を聞くことは、非常に悲しいことであった。なおかつ、叔母さんは小学校の教師であり、子供たちを導く立場の人にも関わらずである。レゲヴの弟はちょうど多感な時を、ラビン暗殺、第2次インティファーダ、自爆テロの恐怖の中で成長し、兵役を終えた若者である。部屋の中で極右的な発言をする二人に対して、反論していたのは叔父さんだけで、他の人はただ言葉をなくしてしまっていた。それは、本気としては受け取りがたい発言なので聞き流すということでもあったが、これが、今のイスラエルで主流となりつつある意見であり、左派であったレゲヴの家族の中でさえも露見してきているということに、私は今後のイスラエルを考えられずにはいられなかった。

先日、ネタニヤフ首相が演説を行い、ネタニヤフの政治家人生で初めて2国家共存の用意があるということを正式に発表した。それがオバマ大統領からの圧力にたいして、決して2国家共存に賛成していなかったネタニヤフが譲歩できるギリギリのラインであり、入植地問題に対しては、はっきりとした発言を避けたにも関わらず、リーベルマン外相は「われらが土地に入植して何が悪い」と、クリントン国務長官にメンツを切ってしまった。そんな、わが道しか行かないリーベルマン外相が、本音しか言わない政治家としてウケがいいのも、皮肉なものである。

レゲヴの家族の小さな集団においても見る事ができるように、オスロー合意からの17年の間にイスラエルの国民の意識は大きく変わってきている。そして、民族と宗教の混沌であるイスラエルは、ますます複雑さを増してきている。日本にいた時に購入した、岩波新書 「イスラエル」臼杵 陽 著 は、現在のイスラエルの状況を、政党の移り変わりと、民族の移民、宗教党の発展、多文化主義とシオニズムによるイスラエルの抱えるジレンマなど、比較的わかりやすく、今までにない角度からイスラエル問題が捉えられていて面白い。イスラエルという国は、ホロコーストを語ることなくしては語れないと思っていたが、ホロコーストを経験したのは欧米系のアシュケナジーだけで、建国後に移民してきたアラブ諸国系(ミズラヒーム)や北アフリカ系(スファラディーム)の移民は、ホロコーストを経験していない民族たちであり、イスラエル建国によるアラブ諸国との戦争によって、移民せざるえなかった。という盲点を著書で再認識させられ、改めて、複雑な民族国家イスラエルの現状を考えさせられることになった。

 

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スーダンからの亡命家族

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私の住むキブツ・ハニタには、2007年にスーダンから亡命してきた家族が住んでいるのだが、今、その家族をめぐって問題が持ち上がっている。

2007年、スーダンで起こっている紛争を逃れるため、イスラエルへ700人あまりのスーダン人が亡命してきた。そのほとんどが南のエイラットにあるキブツに一時的に避難することになり、キブツ・ハニタも二つの家族の受け入れを決めて、彼らに衣食住の全てを与えて世話をしてきた。半年ほどして二つのうちの一つの家族は、エイラットへと引っ越していき、一家族だけがキブツに残って生活することになった。彼らは、ちょうど私の住む一軒となりに住み始め、双子が生まれ、つい最近もう1人子供が生まれ、旦那さんはバナナ畑で仕事をし、奥さんも食堂で仕事を手伝い、子供たちもキブツの保育園に通い、幸せそうに暮らす姿を見ることができた。

そしてつい先日、ニュースに隣人のスーダン人家族について書かれてあり、その時はじめて彼らが問題に直面していることを知ったのである。キブツ・ハニタはスーダンからの家族を、一年間ということで受け入れたのだが、その後もスーダンの情勢は好転せず、もう一年延長して現在まで世話をしてきた。そして2年たった今、キブツは彼らの世話を止め、すぐ近くの Shlomi (シュロミ)という町で家を借りて生活するように促したのだが、Shlomi の町長が彼らの移住を拒否し、水道を通さないなどの嫌がらせをしようとしているらしいのだ。町長の理由としては、以前、レバノン南部からの亡命者が同じように問題を起こして、その尻拭いをさせられたとことを例にあげ、「スーダン人にかかわらず、他国からの亡命者は最終的にお金を払わず、問題を起こす。私達の町は、キブツのゴミ箱ではないんだ」と語っている。もちろん、スーダン人の家族は、バナナ畑で仕事もして給料ももらっており、家賃も何もかもきちんと払うと言っているのだが、聞く耳を持たないらしい。

私達キブツ・ハニタの住民はこの一件をニュースによって知り、「なぜキブツは、彼らをキブツから追い出そうとするのかわからない」と口をそろえて今回の件に異論を唱え、彼らがキブツに留まるようにキブツに働きかけている。なぜ、キブツが彼らを追い出すような決定をしたのか、いまでもはっきりとわからないのだが、どうやら、キブツに住みたい順番待ちの人々が多く、その人たちのための住居が不足しているのが原因の一つのようであるが、だからといって、スーダン人の家族を追い出すというのも、解せない話しであるが。

今のところ、スーダン人の家族はキブツで生活をし、バナナ畑での仕事を続けている。今後どうなるのかは、追って記載したい。

 

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キブツの夏休み

7月からイスラエルは夏休み。9月までの2ヶ月間、イスラエルの子供達には長く楽しい夏休みである。日本のように、大量の宿題や課題が出されることもなく、とにかくのんびりと楽しんで過ごすのが、ここの夏休みの風景。ほとんどの子供達が、「ケイタナ」と呼ばれるオリエンテーションに参加したり、海へ行ったり、プールへ行ったりの日々である。暇をもてあます子供を、職場へつれてくるという風景もよく見られる。親にとっては、多少頭の痛い夏休み・・・だろうか。

そんなイスラエルの夏休みは、キブツの中では少し違って見える。たっぷりの自然があり、プールも終日開放されており、子供達のための小さな動物園などもあるキブツは、毎日、子供の叫び声や遊ぶ声が、あちらこちらで響いている。芝生で仲間とサッカーをしたり、テニスをしたり、プールでジャンプ大会をしたり、時にはお楽しみ会のような楽しいイベントがあり、深夜の探索をしたり・・・・・・仲間といつも楽しめるのが、キブツの子供達である。親にとっても、目の届くキブツの中で、子供が思いっきり遊べることは、何よりも安心感と、教育的利点があると思う。また年齢の達している子供は、キブツの仕事を手伝ってお小遣いも稼げる。小さな動物園では、子供達がヤギや羊・アヒルやガチョウ・ロバやぶたなどの世話をし、動物の世話をする責任感を養うことや博愛の心など、精神教育の役割も果たしている。

9月からは新年度がはじまり、一回りもふた周りも大きく成長した子供達を見ることが出来る。私は、毎年子供達の夏休み後の変化に、驚かされる。ある子はとたんに身長が伸びていたり、またある子はやせてきれいになっていたり・・・たくさんの経験と成長を見せるのか、どこの国でも夏休みの醍醐味なのだろう。

私にとっての夏休みの記憶は、早朝ラジオ体操と、町内プール、そして「自由研究」の課題である。それと忘れてならないのが、盆踊りの練習。なんとも、イスラエルの夏休みとは、大違いである。

キブツ・ハニタ 70周年目の誕生日

イスラエル建国よりも先に、キブツ・ハニタは建設され、先日70周年目の誕生日を迎えた。
たかが70周年・・と思えるが、それは実に重みのある70年なのである。

レゲブのおじいさんとおばあさんは、建設に貢献したまさに生き証人。
彼らの汗と血と忍耐がなければ、レゲブはもちろん、イスラエルすらなかったかもしれない。

当時、イスラエル建国に先駆けて、多くのキブツが国境付近に建設された。
違法ではなく、合法的に土地を購入し、入植していったのである。
しかし、周辺にはアラブの村が点在し、アラブ人たちにとっては寝耳に水、
いきなり訳のわからない連中が入り込んでくるのだか、当然争いとなった。

キブツ・ハニタも例外ではなく、レバノンとアラブの村に囲まれているような場所。
おじいさん達は塔をたて、その周辺にテント小屋を立て、見張りを立てての生活が始まる。
アラブ人たちの夜の襲撃は日常茶飯事だった。
それでも、おじいさんたちは、わずかな食料と、有り余るほどの希望と理念を持って、
キブツ建設に尽くしてきたのである。

イスラエル建国と同時に戦争が始まり、戦争をしながらの生活となるが、
キブツの人々は勇敢に戦い、建国に命をかけてきた。
今でも、多くの戦争でどれほどキブツの人々が勇敢に戦ったかということが話される。

多くの困難と試練を超えて、今、キブツ・ハニタは第4世代まで育っている。
近年のキブツ改革により、キブツ制度は大きく変わり、現在は高級避暑地となりつつある。
多くの人々が、キブツに家を購入し、自然の中でのカントリーライフを望むようになった。

70周年のお祝いは一年を通してさまざまなイベントとして、行われる予定だが、
まずは、超猛暑となったこの日、かつて道路も車もなかったころ、
おじいさん達が、歩いてキブツまで通ったという、現在は自然公園になっているコースを、
さまざまな逸話(交通手段はロバ)を交えながらのトレッキング。
その後、キブツタワーで子供達のためのオリエンテーションが各種行われ、
歌や踊りを交えてのお祝いとなった。

タマもお祝いに駆けつけたが、あまりの猛暑(36度)に「早く、帰りたい・・・」 

キブツ建設のみならず、イスラエル建国に貢献した第一世代は、現在80歳を超える。
おじいさんはいつも嬉しそうに、孫達レゲブにキブツの建設当時のことを語る。
つらかったこと、何もなかったこと、キブツから見えるすべての木を植えたこと・・・
キブツの改革による、人と人との交流の欠如に対する悲しみ、欲と金の世界への変貌・・・

改革は現在のキブツにとって、避けられないものだが、
キブツは今、新しいキブツへと変革している。
一度キブツを捨てた若者達(レゲブの世代)が、彼らの子供達をキブツで育てたい・・といって、
多く都会から戻ってきている。
そして、キブツとは縁のない人々も、キブツの環境のよさに惚れて移住してきている。

私も、キブツに惚れて、住み着いたものの一人だ。
そして、このキブツ・ハニタは、私の第2のふるさと。
このハニタなくして、私のイスラエルでの生活は考えられない。
キブツの自然も、人々も、犬も猫も、花々も、皆、私の心の支えだ。
キブツ・ハニタとの出会いが、私の人生を変えたのだ。

70歳、おめでとう、ハニタ。

家族の肖像

ポラート家族

現在、ヨム・キプール(断食日)中。
 先日の新年の休日に、レゲブの親族一同が、親戚の新築祝いに招待され、
 豪華なプールつきの豪邸で、優雅な一日を過ごした。
 
 毎週末のシャバットには、全員とまで言わないが、多くが、おじいさんおばあさん宅に集まり、
 二人を囲んで、時間をすごす。
 ユダヤ人の家族にとって、シャバットに家族が顔を合わせるということは、
とても大事なことのひとつ。
 都会で、この習慣が守られているかどうかは、知らないが、
 少なくともキブツでは、そして、このレゲブの家族では非常に重要なこととして続いている。
 毎週末のシャバットでも、ある程度の人数が集合するのだから、
 祭日となれば、ひ孫までそろうと、40人以上の人数になる。
 そんな家族の絆を守っているのは、もちろんおじいさん、おばあさんの人柄ゆえである。
 
 キブツにおいても、レゲブの家族のように、親族一同が毎週のように会する、
 ということは、珍しくなってきている。
 やはり、核となっている、おじいさん、おばあさんが、
健在でいてくれることが、一番の理由である。
 
 日本で、はたして、このような光景を見ることができるのだろうか?と、考えてしまう。
 家族の絆、老人へのいたわりの心・・・
 すでに、このような光景が、歴史のものとなってしまった日本。
 その日本からやってきた私は、レゲブの家族の絆が、いつまでも続いてほしいと、
 本当に心から願う。

60年、それは忍耐!

60年間を夫婦として共に生きていくことは、何なのだろう?
 先日、レゲブのお爺さんおばあさんの60年目の結婚記念日を迎えた。
 毎週末、二人の自宅に家族が集まり、談話する時間があるのだが、
 この記念日には、来ることができるすべての親族が、ささやかなお祝いのために集った。
 小さな部屋は、二人を祝う喜びの笑顔で埋め尽くされていた。
 
 レゲブのお爺さんは87歳、第二次大戦中にロシアから船で逃亡し、
 イギリス統治下のパレスチナ(イスラエル)に到着する前に、
 不法移民としてつかまり、サイプラスに一年間投獄された。
 彼の両親はロシアで殺されたそうだ。
 大戦終了と共にイスラエル建国のため、すべての人生をかけてきた。
 レゲブのおばあさんは80歳、イギリス統治下時代のパレスチナ生まれの女性である。
 これは、現在のイスラエルにおいて、非常に貴重な稀なケースだ。
 二人は出会い、結婚し、イスラエル建国のため、
 キブツの建設、国の整備に精魂を費やしてきた人だ。
 
 今でも、お爺さんの昔ばなしは、笑いと涙をそそる逸話が多い。
 建国当時のイスラエルは荒廃し、お金も食べ物もなく、
政府は人々に仕事とお金を与えるため、
 ハチを捕まえたら、捕まえた数だけお金を与える、という仕事を人々に与えた。
 お爺さんはそんな仕事をして、生活の糧にしていたのだそうだ。
 
 今でも、二人の生活は質素を絵に描いたよな、贅沢とは無縁の生活をしている。
 彼らがそう望んでいる。
 もちろん現在のイスラエルは日本と同じレベルの生活ができ、
 食べ物も物資も不足することはないし、贅沢をしたければいくらでもできる。
 しかし、彼らの生活は、生きるだけの食べ物があり、体を休める部屋があり、
 家族を迎える場所があるだけで、満足なのだ。
 彼らの心は本当に清んでいる。
 彼らの前にいると、あらゆる欲というものが汚いものに感じる。
 
 そんなレゲブのお爺さんとおばあさんは、60年を共に生き、
 家族に囲まれ、幸せに生活している。
 この二人が核になり、レゲブの家族がつながっていることが、
 毎週、家族が二人の下に集うことで、本当によくわかる。
 レゲブを含め、親族すべてが、二人を心から慕い、愛し、大切にしていることがよくわかる。
 
 60年目のお祝いの前日から、私とレゲブの関係は最悪だった。
 一言も言葉を交わさず、無視しあい、私もレゲブもそのときは、
 別れることを頭の片隅で考えていたはずだ。
 子作りに頓挫していることが、私達の頭に重石を載せ、
 お互いを尊重しあうことを忘れさせていた。
 そんな関係のまま、お祝いの席に座り、つくり笑いを浮かべていたが、
 ある一言が私達の心に響いた。
 お爺さんとおばあさん曰く、結婚60年の秘密は、「忍耐」その一言に尽きた。
 私は目が覚めたような気分だった。レゲブはどう感じたのだろう。
 しかし、その後、私達の関係は修復された。
 結婚3年目。60年経つにはまだ57年ある。
 今後どれだけ、この言葉が身にしみることになるのだろうか?